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サカタのタネ歴史物語

坂田商会時代の本社従業員と共に 下段1列目中央 坂田武雄 1922年12月26日

History 01
海外実業実習で培った熱き志を胸に

稀代の創業者、坂田武雄の誕生

今日の「サカタのタネ」の創業者で、近代日本の種苗業界の発展に貢献した功労者の一人・坂田武雄は、1888年12月15日、九州出身の父・伝蔵、母・邑(むら)の間に8人兄弟の長男として東京で生まれた。幼少期の武雄は動・植物や読書が好きな少年だった。

帝国大学農科大学実科へ入学し、寄宿舎で3年間の学生生活を送っていた武雄は、豊かではない実家の苦しさを見るにつけ、大学卒業後は独立した事業や商売を始めた方がいいのではと考えた。そこで卒業と同時に農商務省の海外実業練習生募集に応募、資格試験に合格した。

これを機に渡米、海外で園芸や種苗の基礎を学んでこようと考え、1909年10月、横浜からアメリカ大陸へ旅立った。満20歳の時である。

幸運だったのは、その後「生涯の恩師」と呼べるアメリカ人、ヘンリー・A・ドリアー(Henry A. Dreer)社のアイスレー(Jacob D. Eisele)社長に出会ったことである。ドリアー社はニュージャージー州リバートンという小さな町に広大な土地を所有し、数百名の従業員を雇って、世界でも一流の苗木業者として事業に取り組んでいた。

見習採用された武雄は、過酷な労働に耐え抜き、苗木事業の実務を学んだ。やがてアイスレー氏も目をかけてくれるようになった。後年、武雄はこう述べている。
「同氏は自分の仕事を天職と思い、全精力を傾けてその方面で一流となった。彼はよく働くだけでなく、一切曲がったことはせずに正々堂々と行動した」

海外での実業実習を終えて帰国することになった武雄は、すでに「日本へ帰ったら、自力で苗木会社を興して商売を始めよう」と考え、独立して事業を始めると決心していた。帰国後、横浜市に「坂田農園」の看板を掲げ、同市外の六角橋に50アールの農地を借り、海外向けの苗木商を始めた。1913年7月、弱冠24歳の青年のささやかな創業であった。

若かりし頃の坂田武雄

アイスレー氏

苗木の輸出から、花・野菜種子の販売へ

数名の助手を雇って苗木の輸出入事業を始めた武雄だが、創業約3年経ってもまだ利益を出せなかった。農園の唯一の救いは、当時絹織物に次ぐ有望な輸出品となったユリの球根だった。1914年からヤマユリやカノコユリの球根輸出を始め、最初の大きな商売にできた。ちなみに当社が1927年に制定した社章はこれに由来。Quality、Reliability、Service(品質・誠実・奉仕)の標語が花を囲むデザインは、ヘンリー・A・ドリアー社の社章をモデルにしたと思われる。

当時の社章

ドリアー社の社章(資料を元にイラスト化)右下の葉に
当社社章(左)と同義の「RELIABLE」の文字が見える

しかし創業から数年もすれば苗木事業に目鼻をつけられるだろうという予想は大きくはずれた。武雄が苗木から種子への転換を考えたのはその時で、種子なら苗木より勝負が早い。早ければ1年後に販売した種子が優秀か分かるし、その結果によって顧客に信頼してもらえるはずだ。こう考えた坂田は、創業4年目の1916年に種子の販売に踏み切った。

そして、人一倍働いたが、どうしても運転資金が足りず、資金繰りがかなり苦しくなってきた1918年ごろ、知り合った実業家・大倉和親氏、およびその知人の森村市左衛門氏、長与程三氏など7~8名に援助してもらい、1922年1月に匿名組合「坂田商会」を設立した。

当時の配送手段は自転車

関東大震災で「九死に一生」を得るが、倒産の危機に直面

坂田商会は種子輸出中心の専門会社として再出発した。注文が次第に舞い込むようになったが、送った種子が発芽しないケースもあり、1921年ごろから民間初の「発芽試験室」を設け、「発芽試験」を行い、種子性状を子細に観察、良否を判定した。当社の種子絵袋に「発芽率○○%」と印刷されるのはそれ以来である。発芽試験で不良品の発送を食い止め、顧客の信頼を高めることができた。

1920年ごろの本社

民間初の「発芽試験室」

倉庫内での作業の様子

事業は徐々に軌道に乗ってきた。特にアメリカで日本野菜の評判が良く、取引額も急上昇したため、需要拡大を考えた武雄は1921年に渡米。シカゴにアメリカ人を支配人とする支店を設立した。

1922年夏には、さらに力を入れて種子の輸出に取り組むため、横浜市に3階建ての本社事務所を新築、移転とほぼ同時に、満州で花と野菜の種子の委託生産を開始した。

だが1923年9月1日、関東大震災で本社建物は倒壊。武雄は危うく九死に一生を得たが、その余波でシカゴ支店は開設から3年目で閉鎖せざるを得なかった。

1926年9月、再出発した武雄は、同年、長野県の資産家である木戸家の五女・美代(20歳)と結婚。結婚生活は円満だったが子宝に恵まれず、1946年に旧伯爵堀田正恒の次男・正之を養子に迎えた。

関東大震災の痛手から立ち直り、国内向け通信販売カタログ『園の泉』を刊行したのは1927年。1931年には花きを扱う『園の泉』趣味号が創刊され、種子の通信販売が本格的に始まった。これが現在の『園芸通信』の基礎となった。

1930年5月には自社農場で優良品種の育成に取り組むため、試験場として「茅ヶ崎試験場」を開設した。

木戸美代と1926年9月30日に結婚

国内向け通信販売カタログ「園の泉」(1933年)