トップページへ

  1. トップページ>
  2. History 02 草創期 創業の苦難を克服し、世界初のペチュニアのF1品種を開発

サカタのタネ歴史物語

社長室での坂田武雄(1944年)

History 02

草創期 創業の苦難を克服し、
世界初の F1オール・ダブル・ペチュニア品種を開発

世界初のF1オール・ダブル・ペチュニアでAAS銀賞を受賞

当時、武雄は世界屈指の海外の種苗会社から種子生産の委託を受け、日本で種子を増殖して販売するとともに、自らも選抜しながらより良い品種に仕上げていくことを繰り返していた。その中には南米原産の「ペチュニア」も含まれていた。武雄は国立農事試験場の寺尾博博士から部下の研究のため、八重のペチュニア種子の入手を要請され、海外の会社から取り寄せた。

この研究員が禹長春(ながはる)氏で、彼は八重咲きは一重咲きに対して遺伝的に完全に優性だということを発見した。武雄は「まいた種子がすべて八重咲きになるペチュニアができれば成功は間違いない」と確信、オール・ダブル・ペチュニアの育種と種子の生産に取りかかった。

禹長春

オール・ダブル・ペチュニア「ビクトリアス ミックス」

それから数年試作を続けて採種したペチュニアのF1種子はすべて八重咲きだっただけでなく、手鞠のようにみごとな波状弁の八重咲きが8割、カーネーション咲きが2割という驚くべき成果を生み出した。数年後、オール・ダブル・ペチュニアは"サカタマジック"と称賛され、世界中の種苗会社から注文が殺到した。

独占商品だったので驚くべき高値で取り引きされ、シカゴの地元紙「シカゴ・ヘラルド・エグザミナー」は、「サカタのオール・ダブル・ペチュニアの種子は1ポンド(約454g)が1万656ドルもする」と伝えた(1935年6月20日付)。これは同じ重さの金の約20倍に当たり、ケシ粒よりも小さいペチュニアの種子がいかに珍重されたかを物語っている。

1934年には、世界で最も権威のあるオール アメリカ セレクションズ(AAS)の審査で、オール・ダブル・ペチュニア「ビクトリアス ミックス」が銀賞を獲得。その後、ペチュニアの新品種は1941年の太平洋戦争開戦まで8個の銀賞や銅賞を受賞する栄誉に浴した。

「シカゴ・ヘラルド・エグザミナー」に掲載された
オール・ダブル・ペチュニアの価格(1935年6月20日)

オール・ダブル・ペチュニア「ビクトリアス ミックス」
銀賞賞状

合同会社の代表となるが、横浜大空襲で社屋焼失し辞任

1931年に満州事変が勃発し、開拓移民が増えると穀物や牧草、野菜などの種子輸出が盛んになり、販路も大きく広がった。順調に発展した坂田商会は、1936年に主に野菜の育種を行う「大船農場」を開設した。

しかし「日中戦争」で種子輸出にも国家の圧力がかかり始めた。

特筆すべきはそんな時期でも、独自の優良品種を開発したいという創業時の初心を忘れなかったことである。その成果の一つが世界初のキャベツのF1品種「ステキ甘藍(かんらん)」の創出だった。

1942年1月、国策として種苗会社の企業合同が推奨されたため、坂田商会も同年12月に解散。同業4社と合同し、「坂田種苗株式会社」を設立して武雄が社長に就任した。

大船農場

「ステキ甘藍」が掲載された1940年のサカタ種苗目録

坂田種苗株式会社(1942年)

1945年5月29日の横浜大空襲で大規模火災が発生。社屋を焼失し、当時56歳の武雄は翌月に社長を辞任。後事を麻生今助(いますけ)常務に託し、家族と共に山中湖の別荘に疎開してしまった。

1945年8月15日、日本の敗戦で戦争は終わった。坂田種苗に170名ほどいた社員は20数名に激減。戦後も不遇な状況がしばらく続いた。加えて戦後の改革で「大船農場」は没収された。

麻生社長は戦後の混乱期を乗り切ったが、1947年初夏に武雄を訪問、社長復帰を促した。頑固な明治男の武雄であったが、数時間に及ぶ激論と押し問答の末に根負けして復帰した。同年6月、58歳の時であった。

社長室での坂田武雄(1944年)

麻生今助

通信販売と売店営業で種苗事業を再開

1948年4月に横浜市神奈川区に土地を借りて社屋を建設。若く優秀な人材が次々と入社した坂田種苗は、品種育成と優れたF1品種(一代雑種)の作出を行い、徐々に業績が伸びていった。

花きの営業・販売を行う「園芸部」は、当初営利栽培家を対象に種子や球根を販売していたが、次第に種苗店や園芸店などに園芸資材、球根や花種子の袋詰めなどを販売し始めた。総合カタログを発送し、通信販売で注文を受けたのだ。球根や苗木は園芸部が委託生産を行い、最高品質のものを顧客に届けるよう万全の注意を払った。

1950年からは「直売部」を設け、戦前からの伝統を誇る通信販売の再開と新たに売店営業を開始。特に通信販売の再開は重要で、戦後に増えた園芸愛好家向けの記事を充実させた月刊誌『園芸通信』を「園の泉」趣味号の体裁を一新して創刊した。1951年12月1日、本社1階にオープンした売店部は日本ではまだ珍しかった園芸店の走りとなった。

1955年前後に初めて種子の貯蔵庫が完成、本社1階玄関横に試験室もできた。ここでは種子の生理的な研究を他社に先駆けて始めるとともに、輸出用種子の絵袋の材質も検討、試作にも取り組んだ。外国製絵袋を参考に密封度テストなどを繰り返し、種子の保全に万全の配慮をするとともに発芽率を明記するなど、顧客の安心度を高める工夫を施した。

「園芸通信」創刊号